『背後警戒中』

 

その日ヘンリーは朝から機嫌が悪かった。


真夏の猛暑の中、頭の悪い貴族たちの我侭処理という、なんとも非生産的な仕事をしなければならなかったからだ。

非生産的なのに、手を抜いたらギャーギャーと口うるさく文句を言われる。
いや、手を抜かなくてもだ。いっそのことツバメの子供のように、あの口に虫の一匹や二匹放り込んでしまおうか。どうせ文句を言われるなら少しでも自分がスッキリした方が良いではないか。
そんなことを考えながらイライラと力任せにタイプライターを打ち込む。

自分は機嫌が悪いと言うのに、まわりの奴らはなんだかご機嫌そうに見えて、面白くない。

その上、さっきから中途半端に呼び止められる。

不機嫌さを思いっきり乗せて振り返ると、皆その気迫におされ「なんでもありません」と引き下がる。


言いたい事があるならはっきり言え!


自分が言えなくさせているのだとわかってはいたが、それでも負けずに言い返してくる根性がみたかった。

そうすれば、このストレスを全部ぶつけてやるのに。

まったくもって横暴な話だったが、とりあえずそれくらい機嫌が悪かった。


太陽が西側へとかなり傾いた頃、機嫌の悪さを忘れさせるような出来事があった。

忙しく城を歩き回る自分の後をついてくる奴があらわれたのだ。

もちろん、普通ならそれだけで機嫌の悪さに拍車がかかるところなのだが、ついてきているのは大人ではなく、子供だった。

 

後方から着いて来る幅の小さな足音。

コリンズのドタバタとしたものとは違う、隙のない歩き。これはリュカの息子、幼くして勇者とよばれるラスのものだろう。

確かめたわけではない。振り返って確認したいのだが、それをすればラスは逃げてしまう気がした。これだけ距離があれば捕まえるのは難しい。

それにあちらは何か迷っているようだった。

聞こえてくる足音が不規則なリズムをとっているのだ。去ろうとしてやめたり、こちらに追いつこうとしてやめたり


一体何の用だろう?


物凄く気になったが逃げられたくはなかったので、気づいていないふりをしながらラスの動向をうかがうことにした。

 

一方、ラスは一向に気づきそうにない後姿に憤然としていた。

「なんで奴は気づかないんだ」

ヘンリーに敬礼をしながらすれ違う人達が、再びヘンリーを振り返りクスリと笑うのを横目に見ながら、ラスはヘンリーの後を追う。

周りの奴らも、少しくらい教えてやればいいのに。なんて皆薄情なのだろう。
たまに、声をかけようとする人もいるが、結局は成せずに去っていく。
「根性ナシが!」
そう悪態をつくラスは声をかけられないどころか去る事も出来ない根性なしなのだが。

いや、自分はいいのだ。この国の人間じゃないのだから。

この国の人間として、あれをあのまま放置していて良いのか?あいつはあれでも、この国の顔だろ?王様の次に偉いんだろ?

何で皆あれを放っておけるんだっ

 

眉間にタテジワを刻みながら俯きかげんで後を追う。



角を曲がった瞬間、ドンッと人とぶつかった。前方への注意を欠いていたラスがゴメンっ!と謝りながら顔を上げると、壁に腕をついて自分を見下ろすヘンリーの顔が間近にあった。

「何か用かな?ラス君」

驚きのあまり体が反射的に逃げに転じた。

すかさずヘンリーがラスの腕をつかむ。

あわててその手を振りほどこうとラスはもがいたが、絶対逃がすまいとしている手はしつこかった。

 

「っっはなせっ!このウ・・・」

コリンズの真似をして、その言葉をさらりと言い放とうとしたがやはり躊躇してしまった。

「・・・ンコやろぅ・・・」

 

沈黙

 

「・・・いま、なんてった?」

「・・・ウンコやろう・・・」

その言葉を大きな声で叫べない、育ちのよさがでていた。

だがこういう言葉というのはぼそぼそと言えばいうほど逆にはずかしい。大声で叫んだ方がよっぽど爽やかに響くだろう。

しかしそれにしても自分でも下品だと思う言葉を何故無理して言おうとしているのだろうか。

相手を罵るどころか自分が恥かしいだけだ。何一つ有益なものはない。やはり、何か聞き間違ったのだろうか。

「えー・・・っと・・・・もう一回言ってくれ」

「何度もいわせんな!」

逆切れした少年からブンッと拳がふりあげられて、それをバシッと片手で受け止める。結構・・・痛い。

「ふーん。じゃあお前本当にウンコっていったのか。」

左下に目を逸らしたラスは「そうだ」と音のない声でいった。

「そうか・・・」

 

沈黙

 

なんだかよくわからない空気にヘンリーは反応に困った。

「誰がウンコヤローだ」と怒って見せるべきなのか。しかし人をけなすには勢いが無さ過ぎて完全に不発だ。それに今更怒ったところで、白々しいことこの上ない。

いろいろ考えた結果、とりあえず、普通の大人の定番の反応をすることにした。

「お下品。」

それを本人が一番自覚していることは重々承知なのだが。

 

わざわざ指摘されたラスはかあああっと顔を真っ赤にさせた。

うあーーーーーっっと声を上げながら頭をグシャグシャとかきむしり、足をダンダンと鳴らす。

 

とりあえず、その様子から伝わらないもどかしさに苛立っているのはわかる。わかるのだが、本当に何が言いたいのかサッパリだった。

 

「・・・一体なんなんだ?」

「いい加減気づけよっ!」

 

しゃがめと、合図をされてヘンリーが言われるままに体をしゃがませると、背伸びをしたラスが肩に腕を回してきた。
そしてビッとヘンリーの目の前に一枚の紙切れを突きつける。

 

そこには、とぐろを巻いた、その、例の物体が描かれていた。

ご丁寧にも、それからたちのぼる湯気、それに集る蝿まで描かれている。

 

ヘンリーはその紙を見てから状況を理解するのに、数秒かかった。

 

ラスがオレの背中に手を回した後、この紙が現われた。ということは今までオレの背中に張ってあったということだ。この・・・。もう一度その紙をまじまじと見つめる。

 

なるほど。それで「ウンコヤロー」ね。

 

まあ、誰でも経験がある初歩的な悪戯だ。

自分に対してこんなことをする奴といったらコリンズだろう。

 

状況を理解すると頭の中のもやもやがスッキリと晴れ渡った。

今までの違和感がすべて繋がった気がした。

いつもよりいやに視線を感じるのも、すれ違うヤツの雰囲気が何か言いたげであるのも、それでいてその全員がちょっとニヤついた表情をしていたのも

すべて背中にあったこれを見たからか!

 

そういえば今日の朝、コリンズが妙に甘えてきていたが。

なるほどそうやって、コレを貼る隙をうかがっていたのか。

 

それにしてもオレをターゲットにするなんて。

 

…いい度胸しているじゃないか。

 

 

「朝来たときからずっとだぞ。本当に全然気づかなかったのか?」

あんなに皆の注目を浴びていたというのに。少しぐらい勘付いてもいいと思うのだが。

 

ラスの鈍くさいという響きをたっぷりと含んだ言葉を受けて、ヘンリーは、フッと格好良さ気に微笑んだ。

 

まあ、とりあえずと立ち上がって前髪をかきあげる。

「これは、きっちりお礼をしなきゃならないな。」

 

「オレは関係ないからな!」

 

言わなければいいのに・・・。

この余計な一言でヘンリーはこの子にもお礼をせずにはいられなくなった。

ニヤリと緑の瞳を光らせる。

その物騒な光にラスは、即座に後に飛び間合いを取った。

 

クソッとラスは舌打ちをした。

やっぱり、教えるんじゃなかった。あのまま放っておけばよかったんだ。

ずっとどうしようか迷って、声もかけられず、かといって去ることもできず、後をのこのことついて来た自分はなんて間抜けなんだ。

コイツが笑われようが、馬鹿にされようが、自分の知った事じゃないってのに!

 

思いっきり教えた事を悔やむラスにヘンリーがコツリと、一歩近づいた。

ラスは3段跳びで後方に下がり十分距離をとってから身を翻し、一目散で逃げ去っていった。

 

絶対背後を取らせるものか!とするラスのその姿をヘンリーは笑いながら、見送った。

「・・・そんなに期待されると応えたくなるじゃないか」

手の平で隠された口が意地悪く歪む。

 

朝から今までの間、何人もの人と会っているはずなのに誰一人として、教えてくれはしなかった。

自分の機嫌が悪かったせいもあるのだろうが、「触らぬ神に祟りなし」の精神がやはり皆強い。

困っている人がいたらどうしても放っておけない、親譲りの人のよさがこんなところで現れていた。

かといって、リュカの様には素直に教えられない不器用さが好ましくもあった。

 

そう思ったところで

 

ふと、リュカが子供達を預けに来たときの事を思い出した。

忙しいとブチブチ文句を言う俺に

「ヘンリー・・・苦労してるんだね」

リュカはそう言ってクスリとわらっていた。

あの時は、同情してくれたのだとおもったが。

 

 

・・・あんのヤロォ!しってやがったな





ラスはその日一日背後に全神経を集中させてすごした。

たとえそれが不自然な動きになろうとも、誰一人として自分の背後に近寄らせなかった。

 

ラインハットからの帰り道、ずっと気を張り詰めていたラスは疲労困憊してヘロヘロになっていた。しかし、父親の背中を見た途端、吹き出した。

風になびく紫のマントに紙切れがくっつていていたのだ。これは十中八九でヘンリーの仕業だろう。

その紙にはこうかかれていた。

 

『ハゲ疑惑』

 

「うん?なんだい?」

いきなり吹き出したラスを父親が振り返る。

ターバンの巻かれた頭が傾く。

ラスは口を両手で抑えてブンブンと頭をふった。

 

なんだかよくわからないが、とりあえずラスが楽しげならそれでいいとリュカは微笑んだ。

 

その笑顔をみてラスはまた吹き出しそうになった。

父親の優しげな笑顔も、纏う穏やかなオーラも、何処までも深い黒い瞳すらも、すべてはハゲを誤魔化すためのものに見えてきて、おかしくてたまらなかった。

 

 

 

父親の背中を見て笑いを堪えるラス。

その背中にある『背後警戒中』という文字を、ティルは黙って見つめていた。


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